C18 Fe7 N18

仕草に愛 きみは美しい 見た目以上にその全てが

マシーン日記 感想

凄まじかった。

ぶっ飛んでるんだけど、積み立ててあるジェンガを悪戯に崩すと言うよりは、歯車が1つづつ噛み合わなくなっていって最後にはどうしようもなくなるような、嫌に現実的な狂気だった。
もちろん登場人物はみんなイッちゃってるんだけど、その狂気も "セックスしたい、気持ちよくなりたい、寝たい、誰よりも優れていたい、不安から逃げたい、自分が欠落していると認めたくない"など、人間なら誰もが抱く生理的欲求や心理的欲求の発露を突きつめた結果で、見ながら「こんな言動ありえない、狂ってる」とは思うものの、その狂気の原因にはどこか自分にも(誰にでも)当てはまる所があるような、生活のすぐ隣に確かに存在し得る人間的な狂気だった。

サチコを強姦した結果プレハブに足を繋がれることになったミチオには、虐められていたり内定まで決まっていたのを兄にめちゃくちゃにされたりした過去があり、その結果社会(学歴、人間関係など)へ大きなコンプレックスを抱いている。普通の神経なら鎖で足を繋がれるなんて嫌に決まっているだろうに、いざ解放されて社会に出た時に自分の人間性の欠陥のせいで社会に適合できないことを目の当たりにするのが怖くて、鎖で繋がれていることを嫌がるどころか、安心感すら感じているように見えた。「兄のせいで足が繋がれているから自分は社会に適合できない」っていう責任転嫁の言い訳を探して、その不幸に依存して脱出しようともしないような経験は、意外と誰にでもあるんじゃないかなと思う。
とくに自分が直した家電に盗聴器を仕込んで町中の家庭の事情を盗み聞く趣味は、自分と他者を比べて安心材料にしたり、自分を棚に上げて他者の失敗を馬鹿にして仮初の優越感に浸るような、他人のゴシップが気になりすぎる現代人となんにも変わらないと思う。
自分が社会に適合できないのは自分を縛る兄のせい。自分が社会に参加できないのはあの頃の自分を知っている街の奴らのせい。お腹が減るからご飯を食べて、セックスしたくなるから女を抱く。女を抱くと気持ちが良いし。だから逃げられないし逃げる気もないんだろうなあ。

ミチオとサチコはきっと元々狂ってた訳じゃなくて、双極性障害のアキトシをどうにかしようと(病院行くとか)するような気持ちや知識やお金や色んなものがそれぞれに欠落していて。
そのアキトシの躁鬱の波や言動に振り回されて、押さえつけられ続けてた自分の欲求や環境の理不尽さに段々と狂っていって、後半の局面で感情が爆発してしまっていたような気がした。
アキトシのことは私は正直よく分からない部分が大きいけど、でもアキトシは自分の狂気の中でサチコのことは本当に愛していたんだろうなあと、それだけは何故か思った。

ケイコはとりわけ異色な役だった。
「セックスマシーン」の名の通り、自分のあらゆる欲求に従順なキャラクターなんだろうなと思った。夏のクソ暑いプレハブにやっと扇風機を置いたのもケイコだし。
ケイコは単純な性欲も強いけど、研究欲求というか疑問に思った事や興味を持った事にまっすぐで、サチコがなぜ虐められているか疑問に思って行った実験や、ミチオとのセックスで日々色んな体位を試す作業も、その欲求にあてはまっているのかなと思った。
だけど個人的に1番強い欲求は「女であること」なのかなと感じた。最初の方は見た目もマニッシュだし、"4cmの男性器"とか、根っからの理系とか、言動からしてもかなり男性的なキャラクターだなと思っていたけど、ミチオとの子を受精した夜のシーンは、月のメタファーもあってか自分の女性性に戸惑いつつも満足していたようにも感じたし、どうしようも無いクズにしか手を伸ばせない所は母性とも感じとれるし、「マシーンになる」っていうのも「見えない観客がドン引きするくらい殴ってみなさいよ」とかも、「男に使役されたい」「男に服属したい」みたいな欲求が快感と繋がってるのかなと思った。

人間が身体の奥底に持っている欲とか、それによる社会的な問題が描かれていたように思うけど、この舞台から何を学べばよかったのか、それすらも最後には狂気の渦中、混沌に消えて行ったなと観劇直後は感じてた。
この舞台が今後の人生に効くのは、実際この舞台で描かれているなと感じた場面に自分が直面した時なのかなと思った。この舞台で描かれているものの全ては誰もが持っている欲求だったから、ということはつまりこの先の人生全てにこの舞台が効いてくるんだなとも思った。




北斎漫畫の時も思ったけど、その時以上にこれを1日2回公演なんてマジで狂ってんなと思った。大楽にはキャスト全員死ぬんじゃないかなと思う。私はたった3時間この舞台を見ただけでこんな衝撃を覚えているのに、稽古含めて2ヶ月もこの狂気を演じ続けるなんて体力的にもめちゃくちゃ大変だろうし、ほんとに気が狂うんじゃないかと思う。

横山さんは舞台に入ると普段の雰囲気も変わるなあと思ってたけど、最近の言動とか年明けからのピリピリした鋭い色気とか、なんとなくなるほどなと思った。丸山さんに意味もなく急に抱き着いたやつ、この舞台中じゃなきゃやらないだろうなと思う。
ミチオやってる横山さん、すっごい色っぽいんだけど普段の横山さんと全然違う色気だったな。
普段の横山さんは理性と野性が共存した濡れた色気が身体のまわりに張りつめている感じだけど、ミチオからは人体を構成してる皮・肉・骨の動きと、隠すつもりのない原初的な性欲が相まった、野性的な色気を感じた。
かなり痩せてて、皮の下に筋肉と骨だけが動いてるなってわかる真っ白な身体が綺麗でもあり不健康で、メイクじゃない痣もライトで飛びきらずに目に鮮明に映った。
叫ぶと脇腹の筋肉が浮き出るのめちゃくちゃ人体だなあと思った。
私は普段から、横山さんは理性的な部分と本能の部分が拮抗してる場面がいちばん色っぽいなあと思っていて、自分の正直な感情をどの程度顕にしていいものか探ってるのが垣間見える瞬間がいちばんセクシーだと思ってるんだけど、ミチオでは芝居とはいえ本能の部分が強くさらけ出される部分があったのがすごく印象的で良かったし、ミチオ自体本当の狂気とかろうじてある正気の間に挟まっているような役だったから、そんな感情の拮抗に怯える表情もすごく色っぽくてよかった。
もちろんミチオはお芝居なんだけど、自分とは全く別の感情として演じるだけじゃ出ないような気迫というか、ミチオを通して横山さん自身の奥底にある狂気を見た気分というか。全く作られた嘘の感情を見た気には全然ならなかった。
人を殴る場面、暴言を吐く場面、のたうち回る場面、女の体を求める場面、自慰をする場面、唾液も気にせずにセリフを発する姿、強姦したサチコをトランクス1枚で挑発する目線。理性の枷を投げ捨てて本能のままに動いてる横山さんがめちゃくちゃ恐くて魅力的だった。
そんな本能的な言動の反面、鎖に繋がれている状況に甘んじていて、ご飯もセックスもしたくなるからするだけのミチオの内側の空虚さが、横山さんが持つどこか寂しげで孤独感のある雰囲気と重なって、独特な現実感が生まれてるなあと思った。
本当にオタクの勝手な見解なんだけど、横山さんは世間的な善悪と自分の中の善悪のバランスはありつつ、一方で良いも悪いも無く産まれた感情のそのままで存在してるんだろうなと思っていて。虚勢も謙遜もない、今ありのままの横山さんが自分の奥深く無意識下に飼っている枷鎖をマシーン日記という台本を通して振り切って、感情のダムが決壊していく様子をお芝居として観れたのが本当に良かった。

やっぱり私舞台の横山さん好きだな。映像とはまた違った引力というか、横山さんに役が憑いて、ホール全体の空気を自分のものにする気迫があって。お芝居する上ですごく技術があるって訳ではないのかもしれないけど、それ以上に感情が本物っていうか。客の没入感とか集中力の糸を舞台上の物語にず〜っと引っ張ってる感じ。
横山さんの舞台を見ると「横山さんを見たな」って感じが全然しない。今回有難いことに運良く2列目が当たったから間近に横山さんを見ることが出来たんだけど、上演中はずっと横山さんはその物語の登場人物の1人でしかないから、「横山さんが近くにいる🖤」みたいなドキドキが全くなくて、話そのものに没入できるのがありがたい。本当に舞台そのものを雑念なく見れる感じがする。
だからこそカテコで出てきた時の素の横山さんのオーラが本当に凄くて、疲れながらも笑顔で手を振る横山さんが半端なく眩しくて全然失明したもんね。

北斎漫畫の後しばらく舞台をやりたくないって言ってたみたいだし、この後は舞台仕事は当分お休みされるのかもしれないけど、数年に1度でいいから舞台やって欲しいな…………

ミチオが動く度に音を立てる鎖の音が頭にこびりついて離れません。いい舞台でした。





以下、公演終了後にTwitterで呟いた感想です。
自分が見返す用のアーカイブとして引用します。