C18 Fe7 N18

仕草に愛 きみは美しい 見た目以上にその全てが

窮鼠はチーズの夢を見る 感想

※当記事は「窮鼠はチーズの夢を見る」公開直後にTwitterにてふせったーで呟いた感想文です。(投稿日︰2020/9/12)


大倉くんのおしりのドアップからはじまるありがた設計

画面がとても綺麗で、でも内容はとても濁ってて、そのコントラストが酷く鮮明だった。

彩度の低い画面に印象的に出てくる青が酷く目に付いた。鮮やかではないけど、背景に溶け込むわけでもない、絶妙な青色だった。カーテンやクッションなど。
同じように黄色い灰皿も画面の中でずっと違和感を放っていた。きっと恭一の目にも他の家具たちとは違うように映っているんだろうなと感じた。

青色のカーテン、黄色の灰皿の他にも、煙草とジッポ、車、食事、ビール、部屋着やパンツ、ソファー、スツール、ベッド、そういった「生活」の中のもの達が一緒に過ごすうちに2人の繋がりになり得てしまう感じも、ありふれたことだけどとてもリアルに描かれてるなと感じた。

多くの人が「愛したい」と「愛されたい」の欲求を持っている。無条件に自分を愛してくれる人が欲しいし、安心して愛情を注げる人が欲しい。だけど裏切られて傷つきたくないし、自分だけは良い立場でいたいし、劣等感を感じたくないし、負けを認めたくないし、奪われたくないし、気持ち良いのには流されたい。本当の自分のままで傷つくのが怖いから、みんな少しづつ偽ったり装ったり、時には本音を隠して、時には感情のままに動いて、狡く身勝手になりながら、そんなふうに自分を守って生きていく。これは恭一に顕著。

だけど実際に「愛してくれる人」や「愛したい人」に出会うと、あんなに自分勝手に愛を求めていたのに突然臆病になる。愛を貰うと何か裏があるんじゃないかと不安になったり、気持ちが通じ合うと自分には相応しくないんじゃないかと卑屈になったり、愛した結果引き返せなくなることが怖くて愛する理由や愛さなくていい理由を探してしまったりする。愛そうと心に決めても、相手を理解するのが難しくて自分と相手の違いに悩んだりする。愛への欲求と自己防衛の狭間でもがきながら、人は人を愛するんだなと感じた。これは今ケ瀬に顕著。

海のシーンより前の恭一はもう本当に毎セリフ最低だなと思ってたんだけど、恭一だけじゃなくて結局はみんな利己的で、それぞれに酷いと思いつつも共感できてしまう感情とかセリフがあった。もしかしたら人によっては恭一に共感できる人もいるかもしれない。誰にも共感しない人ももちろんいると思う。この登場人物たちのように、恋愛に関して人が持ってる「人に愛されたい」「人を愛したい」欲求と同時に存在する「自分を愛したい」「自分を守りたい」っていう感情のバランスを保つのがそれぞれに難しくて、結果行動を間違えたりして、衝突したり離れたりする。それらはごく個人的な感情であり、それ故にとても普遍的な内容だったと思う。

それと、これはキャラクターの特性だと思うけど、大伴恭一に関しては「性的快楽」もかなり大きな欲求の要素になってるなと感じた。そもそも本来恋愛対象では無い相手とのセックスなんて出来ないことが普通だと思うけど、こと恭一に関しては今ケ瀬にされることを快楽として受け入れることがアリだなと思えてしまったから、結果的にそれが今ケ瀬を愛する入り口になってしまっているって言うか。性自認を越えた愛を育むに至るきっかけが性的快楽に流されたに過ぎないっていうのが恭一を恭一たらしめているなと思うし、"リアル"だなとも感じた。性と愛を別物と捉えるか延長線上と捉えるかはたまたケースによって変わるのか、そういうのは本当に男女差すら越えて個人によって価値観が全然違うと思うので、恭一の個人的な性の価値観がセックスのシーンの濃密さによって描かれるのは面白かったし、実際やってる事は最悪なんだけど納得は出来た。有り得るなって。そういう所からも「これはいわゆる"BL"じゃなくて、身近に存在し得る"恋愛"なんだ」っていうのを感じられたのがとても良かった。

最後のシーンはどこまでもさわやかに残酷だった。たまきとは婚約して親と会ってまでいて、恭一自身自分の性のアイデンティティに悩みながらゲイクラブにまで行って号泣して、その末今ケ瀬を「いらない」とまで言って拒絶する。なのにその後たまきを帰したあとの家に今ケ瀬を呼んで抱いて、何を決意したかたまきと別れて、なんでか吹っ切れた顔をして灰皿を洗って今ケ瀬のスツールに座る。罪のないたまきをズタボロに傷つけて、今ケ瀬が他の男に抱かれて泣いているのに、恭一だけは爽やか。

初めのセックスは男である今ケ瀬相手には勃たないだろうから恭一がネコって言うのは分かるんだけど、たまきを帰した後は恭一が今ケ瀬を抱いている。それって今ケ瀬相手に"自分から"性的に興奮できるようになっているってことじゃん。精神的にも性的(肉体的)にも今ケ瀬を自ら求めはじめていて、性自認との乖離に揺らぎに揺らいだ結果、恭一を抱いたことで「確立された未来があるけど満たされない」たまきよりも、「例外」であり「愛と快楽をくれる」今ケ瀬を選んだ。自分は男が好きなわけじゃないのにどうしても今ケ瀬が好きだという気持ちと、恭一本来の愛されたい欲と快楽欲求がそうさせたんだなあと感じた。
今ケ瀬が恭一に抱かれたことでまた恭一に愛されることが怖くなって逃げ出して男に抱かれ泣いているあいだ、家で今ケ瀬を待っている恭一の顔の爽やかさがあんまりにも残酷で、美しかった。ドラマチックでもハッピーエンドでも綺麗でもなんでもなくて、「お互いを例外として好きになってしまう」「それを認める」という感情の変化以外、恭一は優しくて酷いままだし、今ケ瀬は臆病なままだった。
「恋愛でじたばたするより〜」という恭一の言葉があったけども、きっと2人はこの先も同じように傷つけたり傷つけられたり自傷したりしながら、どうしようもなく愛し合うしかないんだなと思った。

作品の中でこの2人は惹かれあったけど、変わらなかった。そんなところも痛いくらいリアルで、こんなに自分の気持ちがわからなくなる後味ははじめてだなと思った。

見ている最中も見たあとも考えてしまう作品だったので、もう1回見た時にはどう感じるのかが楽しみだし、「適齢期」になったらまた見たい映画だなと思った。

めちゃくちゃ個人的には過去の恋愛とこの映画のずるさとか臆病さを重ねてしんどくなったし、今の恋愛を嫌でも振り返ってこの先が怖くなったし、恋愛をしたくなった気もするけど嫌になった気もするし、元々分からなかった自分のことがまたさらに分からなくなったし、愛されたいという意味でどうしようもなくセックスしたくなったし、久々にタバコを吸ってしまった。

とってもいい映画でした。